Dior Brand History
-
1947年
クリスチャン・ディオールは42歳にして、初のコレクションを発表しました。 会場はモンテーニュ通り30番地のサロンです。ショーが終わり、これまでにないシルエット、長さ、ボリューム、締め付けられたウエスト、非常にセクシーな胸元を見た後、『ハーパース バザー』誌編集長、カーメル・スノーは「クリスチャン、あなたのドレスはまったくニュールックだわ!」と叫んだといいます。ニュールックの象徴ともいえるバー(Bar)スーツジャケットはウィリー・メイワルドの有名な写真によって不滅のものとなりました。同年「愛の香りのする香水」、ミス・ディオールを発表します。
-
1951-55年
1951年に「オーバルライン」、53年に「チューリップライン」、54年に「Hライン」、55年に「Aライン」「Yライン」56年にアローラインを発表。エレガンス、女性らしさを追求する新たなシルエットは世界中で賞賛を受け、ファッションをリードします。
-
1957年
ディオールは、アメリカの経済有力紙「TIME」の表紙をクチュリエとして世界で初めて飾ります。しかしその数ヶ月後、イタリア旅行中、心臓麻痺により52歳で急逝してしまいます。その後21歳の若さでイヴ・サンローランが主任デザイナーに就任し、翌年の自身初のコレクションで、「トラペーズライン」を発表し、ディオールのエレガンスの伝統を見事に受け継いだことを証明しました。
-
1960年代
1960年にはマルク・ポワンが主任デザイナーに就任し、「スリムルック」、「サファリルック」などの新しいシルエットを発表。89年までデザインを担当することになります。1967年、ディオールは、本格的にプレタポルテラインをストートし、同年には子供向けの「ベビー・ディオール」を発表しました。
-
1970年代
70年代からディオールは経営危機を迎えます。78年には親会社のブサック・サンフレール社が国有化される状態に陥いりますが、84年、ベルナール・アルノーが経営を引き継ぎブランドを再興させます。1990年にアルノーが買収により「LVMH」の社長に就任したことにより、ディオールは同社傘下となります。
-
1989年
ミラノを拠点に活躍していたジョルジョ・アルマーニ、ジャンニ・ヴェルサーチェと共に「ミラノの3G」と称さていたジャンフランコ・フェレが主任デザイナーに就任します。同年「ニュールック」をモチーフにしたオートクチュールコレクションを発表して好評を博し、90年にはフランスの「金の指貫き賞(デ・ドール賞)」を受賞しました。96年に退任したフェレは「クチュールはディオール以外のブランドでは考えられない」と語り、以後、クチュールには携わることがありませんでした。
-
1995年
ダイアナバッグとも呼ばれる「レディ ディオール」は当初「カナージュ キュイール」という名で発表されました。デビュー同年、ダイアナ妃(=Lady Di)はフランス大統領シラク夫人からにプレゼントされたこのバッグを、非常に気に入り愛用しました。そのためいつからか、「レディ ディオール」という名前で呼ばれるようになりました。
-
1996年
「ジバンシー」のデザイナーだったジョン・ガリアーノがベルナール・アルノーの指名により主任デザイナーに就任しました。ガリアーノは一度見たら忘れられない独創的で情熱的なコレクションを発表します。時にディオールらしくないという批判を受けながらも、「奇才」として全世界からの注目を浴び、ディオールの世界的なブームを巻き起こしました。
-
2012年
2011年、ジョン・ガリアーノの差別発言が問題となり解雇されます。翌年、ラフ・シモンズがアーティスティック・ディレクターに就任しました。豊富なアーカイブを基に「新たなエネルギー」と「再活性化」にこだわったアプローチで望んだデビューコレクションは、メゾンの遺産とラフ自身の現代的なアプローチを融合させ、新感覚の「ニュー・ルック」を表現し賞賛を浴びます。またラフ・シモンズのオートクチュール・コレクションの舞台裏に追ったドキュメンタリー映画「ディオールと私(Dior and I)」も公開され話題になりました。
-
2016年
2015年にラフ・シモンズが去ったあとデザインチームでコレクションを発表していたディオールでしたが、2016年「ヴァレンティノ」で活躍していたデザイナー マリア・グラツィア・キウリのクリエイティブ・ディレクター就任が決定しました。「ヴァレンティノ」を再び活性化させた才能と、女性の完成がディオールにどういう変化を生み出すのかが期待されます。